純白の花束
#百合
白い花でいっぱいのお花畑で、一本だけを大切に握りしめていた。
いつの間に持っていたのかわからないけれど、これはとても大切なものだ。だって心の底で温かいものがそう訴えかけてくるのだから。それからこの花を手放さないように、そっと包み込んだ。
私はとても満たされた気持ちでくるくると舞い踊る。
足元の花の花弁が舞い散ってしまうのも構わずに、くるくるとひたすら踊って、踊って。舞い上がったそれは飴玉となって私に降り注いだ。
甘くて、ほろ苦い飴玉をポケットいっぱいに詰め込んで、思い出と一緒にくるくる回る。
このままずっと踊っていたいくらい、とても楽しい時間だった。
嗚呼、このまま時が止まってしまえばいいのに。
なんてありふれたことを考えながら、回っている。
ぐるぐる、ぐるぐる回っている。
回りすぎたのか少し目眩のようなものがしたかと思うと、胸がくるしくなって。
目の前が突然真っ暗になった。
1
アラームの音で夢から覚める。
二階にある自室の窓からは眩しい日差しが差し込んで、現実へ戻ってきたことを強く意識させる。私はそれでも未だ覚めきっていない目を擦り、寝転んだままベッドの上にあるはずのスマホを手探りで探す。
「……あれ、」
あるはずのスマホが見つからなくて、ベッドのシーツをさすっていた手には何かわからないものが触れた。
体をそっと起こしいつまでも瞑っていた目を恐る恐る開けると、そこには見覚えのない花が落ちていた。自室に花を飾ったことなど無いというのに。
そういえば、夢を見ていたような気がする。内容はもう覚えてなんかいないけれど、とても心地いい物語を読んだ後のようなそんな読後感みたいなものが胸のうちに残っていた。
ふと我に返り、部屋にけたたましく鳴り響くアラームの主を探す。
ベッドから降りようと足を下ろすと、ひんやりとした板のようなものが足の裏に触れてスマホが落ちていた事に気がついた。画面が割れていることを危惧しつつ慌ててそれを拾いアラームを止める。
その時ちょうどメッセージが届いたことを知らせる音が鳴った。画面が割れていなかったことに安堵しながらそのメッセージを確認すると、その主はクラスの委員長からだった。
とても優しい彼女のことだから、昨日早退した私にわざわざ連絡してきてくれたんだ。そう思うと、自然に顔が緩む。
『おはよう』
『体調はどう?』
『おはよう』
大丈夫だよ。そう送ろうとしたところで胸が苦しくなってその場にうずくまる。何かが喉の奥までせり上がってきて強烈な吐き気を催した。
これは流石にやばいと思って、スマホをベッドの上に投げ捨ててトイレへと走る。
階段を慌ただしく駆け下りる私に母がリビングから何か話しかけているような声がしたが、耳を傾ける余裕なんてあるはずもなく一目散に駆け込んだ。
「うぇ……っ」
そして、吐き出す。
吐き出せるものなんてないだろうけど、吐き出した。
朝ごはんもまだ食べていない私は、寝てる間に何を食べていたのか……さっきベッドで見つけたものとおそらく同じ花がそこにはあった。
吐き出すことで苦しさは落ち着き、全然回っていなかった頭も思い出したかのように回り始める。
そういえば昨日もそうだ。学校で突然吐き気に襲われて……あの時は、お弁当を食べ過ぎたからかと思ったけれどコレは……
「もしかして、」
花吐病(はなはきびょう)、かもしれない。
私はそう思った。
恋煩いを拗らせたら花を吐くとかうっすらと噂だけ聞いたことのあるような、都市伝説のような話。本当にあるのかはわからない病気とされているそれに、私がかかったというのだろうか。
けれど、寝ぼけながら部屋にあるはずのない花を食べるなんてありえない。それ以外の可能性を考えるとそれしかないのだ。
信じられないけど信じるしかない。原因も何もわからないけど、とりあえず学校へ行く準備をしようと立ち上がった。
学校に着いたのは予鈴の鳴る五分前だった。
息を整えつつ席へ着く。
「おはよう」
隣の席に座っている委員⻑、白澤由梨が私に声をかける。
「……お、おはよう……っ」
息を切らしながらなんとか答え、喉を潤す。生き返るような心地がして、ぷはぁなんて声が出た。
「昨日、あの後大丈夫だった?」
私が回復したのを感じ取った彼女は、とても心配そうな声で言った。
私の顔を覗き込むその仕草で腰まである彼女の髪が靡く。レースのように綺麗な髪がそれによって際立っていて思わず見とれてしまった。
「あ、大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
受験勉強のストレスかな〜なんて言って笑ったけれど、ワンテンポ遅れて答えた私は声が上ずってなかっただろうかなんて呑気に考えていた。
先生が教室に入ってきて、私たちは前に向き直る。やっぱり綺麗な彼女の髪はシャンプーの香りがして、ああ好きだなぁなんて思った。私の胸あたりがどくんと打って今朝のことを思い出す。
花吐病は恋の病気。
そうなのかな。自分自身が花吐病かどうか定かではないし、彼女が好きだというこの思いは本当に恋なのかどうかすらもわかっていない。私は恋を知らないから。でも、もし恋ならば……。
そう考えたところで何かがせり上がってくる心地がして、吐いてしまわないようにぐっと飲み込んだ。先生の話なんて耳に入っていなかった。感じていたのは、彼女の香りだけだった。
2
中学生の頃だった。所謂親の都合で転校を繰り返してきた私は完全に心を閉ざしていた。
いつ離れ離れになってしまうかもわからない。自分が傷つくのが辛かったから、極力誰とも関わらないように、誰の目にも入らないように過ごしていた。けれど委員⻑は、そんな私に初めて話しかけてくれた。とても眩しい笑顔で。
だけれどその微笑んだ顔が私には怖かった。悪意も裏も全くないのはわかるけれど、怖いと思っていた。
きっとその笑顔が消えてしまうのが怖かったからだろう。心が近づくのが怖かったからだろう。その当時はそんなことわかりもしなかったけれど。
彼女は私の世話役として先生に任命されたのか、いつもそばにいた。移動教室や休み時間に本を返しに行くのも、トイレに一緒に行くこともあったっけ。
私は正直放っておいて欲しかった。人との繋がりに過敏になっていて、繋がりが切れてしまうことがとても怖かったから。この頃は特にそう感じていた。
だからわざと彼女に冷たく当たったこともあった。これ以上近づかないように、傷つかないように、傷つけないように。
けれど彼女は、離れないどころか優しく接してくれて。それが何故だか分からなかった。普通、冷たくされたり避けられるとその人から離れようとするだろうに。
私にはそれがわからなくて、わからないから知りたかった。
「どうして、私に世話をやくの?」
委員⻑に冷たく当たっているのに、と言った二人っきりの放課後。
夕陽に照らされた教室は少し冷えていた。
「どうしてって……」
彼女は少し困った顔をして、それから少し微笑んだようなあの顔でこう言う。
「豊崎さんと仲良くなれそうな気がしたから」
仲良くなれそうな気がしたからといって、冷たくされていても傍に居てくれるものなのだろうか。わからない。分からないけれど、彼女の瞳は真っ直ぐと私を見つめていた。
私は自分自身の幼稚な行動をとても恥じた。そして自分自身を責めた。顔が赤いことを隠すように俯いて、涙を零さないように拳を握る。
彼女はそんな私を見て、そっと背をさする。
「泣いてもいいんだよ、」
「……ぇ」
我慢しなくていい、と言った。私は自分の中で張り詰めていた何かがプツンと切れて、涙を流した。そっと頬を撫でる彼女の手は暖かくて、余計に私の涙腺を刺激する。
「本当に、ごめん……なさい。ありがとう……」
彼女はいつも真っ直ぐと私と向き合おうとしてくれていた。なのに私はそれに気がつけなかった。気づこうとしなかったし向き合っていなかったからだ。
私は人の優しさが怖かった。だから、人に優しさを返せなかった。
でも、彼女は「友達になろう」って、そう言ってくれた。
真っ直ぐな彼女の言葉を信じてみようと思った。
3
「百合ちゃん、帰ろう」
気がつくと通学鞄を提げた彼女が私の目の前に立っていた。いつの間に一日が終わっていたのだろう。
「あ、うん!」
そう言って、私は慌てて未だ机の上に散らかしたままの教科書たちを自分の鞄に突っ込んだ。
「そういえば、彼氏はいいの?」
「大丈夫、百合ちゃんと帰るって言ったから」
「そっか」
少し胸が痛んだ。
友達になってからずっと、彼女の隣にいたのは私だった。私が一番だと思っていたのに──そう思ってしまう自分も嫌だ。
「お待たせ、帰ろ」
靴箱付近にできている人だかりも少し遅い時間だからかいつもより少なくて、外から射し込む夕陽はあの日よりも暖かかく、輝いているような気がした。
「由梨、今日この後って用事ある?」
「特にないけど……どうしたの?」
「ちょっと遊ぼうよ」
少し寄り道をして、最近できた新しいカフェに行こうと私は彼女を誘った。
「うん、でも……」
彼女にしては珍しく言葉の最後を濁して答える。
もしかしたら私の体調が気になっているのかもしれない、と思った私は、
「あー……体調は大分マシになったから、大丈夫だよ」
変に気を使って嘘をつくのも嫌だったから、そう答えた。
「でも大丈夫! 月曜日にはすっかり元気になってる予定だから!」
「本当?」
「うん、それよりも今は気分転換がしたい気分なの! 付き合って!」
彼女はいつもの笑顔で、「もちろん!」とそう言った。
カフェは、新しくできたばかりというのもあって少し混んでいた。カップがとても可愛いと評判で女子高生が溢れている。
店内でくつろぐのは諦めて、比較的回転率のいいテイクアウトで何か飲み物を頼むことにした。
美味しそうでキラキラしている、いかにも女の子が好きそうなメニューとにらめっこして、笑顔が眩しい店員さんに声をかける。
悩み抜いた末、でかでかと書かれている一番人気なタピオカミルクティーを飲むことにした。
近くの公園で「美味しいね」、なんて言い合ってインスタ映えとかいうような写真を撮る。それから他愛のない話をしていた。
「そういえば、月曜日って百合ちゃんの誕生日だったよね」
そう言われ、スマホでカレンダーを確認すると確かに私の誕生日だった。
「あ、ほんとだ」
「当日楽しみにしててね」
「うん!」
首が取れるんじゃないかというくらいの勢いで頷き返事をした私の顔は、とても輝いていたと思う。誕生日がこんなに待ち遠しくなったのはいつぶりだろう。
「じゃあ、またね」
「またね」
いつもなら薄暗くて一人で歩くのを躊躇するようなこの道も、今は色鮮やかに見えてしょうがない。ポケットに入っていたお気に入りの飴玉を舐めてスキップするくらいの気持ちで歩く。甘い飴が、甘さを増したような気がした。それぐらい誕生日を迎えるのが楽しみだった。
そういう時に限って、忘れていたあの吐き気が蘇る。私は思わずその場にしゃがみ込んだ。
これはまずい。早く家に帰らないと。
飴玉を噛み砕き、慌てて走り出そうとする。けれどこの場から家まではちょっと距離があり、この状態で間に合うとは思えなかった。コンビニに駆け込もうかと思ったが、そんなの近くにあったかなんて覚えていない。
どうしよう。どうしたらいい。
「あ、」
風が吹き、顔を上げると一つの看板が目に入った。
「奇病のための……精神病院……?」
私の頭が理解するよりも先に体が動いて、昔の学校のようで少し古いお屋敷のような、不思議な雰囲気の建物に足を踏み入れていた。
受け付けらしいところは見当たらないし、吐き気は収まらないしでせり上がってくる何かを押さえつけるようにその場にうずくまる。どうしたらいいかわからなくてパニック状態になっているところに、ふわりとココアの甘い香りが香る。ふと顔を上げると、とても優しい顔をした白衣の男の人が、マグカップを手に持って立っていた。
「大丈夫かい、」
穏やかな声でそう尋ねられ、私は思わず溢れる涙を止めることができなかった。
大丈夫なんかじゃない、どうしたらいいかわからない。そう伝えたいけれど涙がそれを阻むようにとめどなく流れる。
「た、すけて……」
声にできたのはそれだけだった。
甘い匂いで目が覚める。
体に触れる柔らかな感触は、いつの間にか病室に運ばれていたことを示していた。
「目覚めたか」
声が聞こえて体を起こすと、さっきの先生らしき白衣の男の人が傍に座っていた。
聞きたいことはたくさんある。慌てて口を開こうとしたけれど、胸の異物感でむせてしまう。
「慌てなくていい。ゆっくりで大丈夫」
優しい手つきで私の背中を撫でながら、こう言った。
「ココアは好きかい?」
そっと頷くと、彼は席を立ち可愛いマグカップを手にして戻ってきた。
手渡された温かいそれをそっと包み込み、口付ける。
「美味しい……」
「それは良かった」
彼はそう言って笑ったかと思うと、自身の名を『神城響也』と名乗ってそれから私にこう尋ねた。
「君のこと、聴かせてくれるか?」
ココアを飲んで、少し楽になった私はゆっくりと、ゆっくりと話し始めた。
†
「それは、君が思っている通り『花吐病』だとみていいだろう」
体内から花が出る現象なんて、普通では有り得ない。有り得るとするならば、未だ解明されていない奇病の『花吐病』くらいだと先生はそう言う。
それから先生は机の中から資料を取り出し、私へ手渡した。
「これは、今の段階で解明できている花吐病のデータだ」
「……これが、」
そこには噂で聞いたことのあるような、発症から完治までのあれこれが記されている。
『発症の前兆として、身体の中(細かい場所は不明。感情とリンクするため頭や、吐き出すために腹の中など様々な説がある)に種が現れると言われている』
読めば読むほど嘘のような話だけれど、先生がわざわざ嘘の情報を見せるとも思えなかった。信じがたい、でも本当に花吐病があると信じるしかない。実際に自分も花を吐いているのだから。
そうして俯いていた顔を上げ、先生の話を待った。
4
白い花でいっぱいのお花畑の中、彼女は楽しそうにくるくると回っていた。
私はそれを離れたところからそっと眺めている。
幸せそうな笑顔で回っている彼女を見ているだけで、私は幸せだったから。それ以上近づいたりはしなかった。
百合ちゃん、私の大切な人。大好きな人。
貴女が幸せでいられるなら、私はなんだってしたい。
突然彼女がぐらりと揺れた。膝から崩れ落ちるように倒れ込むところを助けようと、足を踏み出そうとしたところで──突然目の前が真っ暗になって。
そしてそのまま、夢から醒めた。
†
「あ、れ……?」
目を開けると、涙を流していたことに気がついた。
「……またか」
大切な人を守れない、側にいられないそんな夢ばかり見て涙を流し目を醒ます。
最近、朝はいつもこんな感じだ。
もう慣れたもんで、とりあえず学校へ向かう用意をしようと今の時間を確認する。まだ少し余裕があるみたいでホッとしつつ、制服の袖を通した。
今日は彼女の誕生日、だけれど学校に行く前にいかないといけないところがある。
なんとも言えない気持ちに包まれたまま、あまり味のしない朝食を済ませ私は家を後にした。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
少し古めの館へ足を踏み入れる。
ここは奇病のための病院。一般的でない精神面から発症する病気を専門としていた。
私が同じような夢ばかり見てあまり寝られていないのも、もしかしたら関係があるのかもしれないと思った病院の先生がここを紹介してくれたのだ。
「白澤由梨さんだね、話は聞いているよ」
先生と思わしき背の高い白衣の男性は、そう言って私を診察室へと招き入れた。
「さっそく本題だけど、」
彼は私にココアを手渡し、そう話を切り出した。
「現段階で君の病気をはっきりと断言することはできない」
私は落胆しかけた。まだこの悲しい、辛い夢を見続けなければならないのかと。けれど彼は、しかし、と話を続けた。
「心当たりがないわけではないから、そんなに落ち込まなくていい」
彼はデスクから一つのバインダーを取り出し、あるページを私に見せる。
「花食病(かしょくびょう)……?」
「そうだ、その名の通り花を食べてしまう病気。発症していることは花を食べるまでわからないが、いくつか前兆となる症状がある」
「前兆って、もしかして」
その続きは自分で確かめろと言わんばかりに、彼は目で私に促した。
そうして恐る恐る続きを確かめると、そこにはこう記されている。『発症の前兆として、いくつかの症状が現れる。一つは、いつも食べている物の味が感じられなくなること。そしてもう一つは──』
「同じような夢を見続けること……」
夢に出てくる人は、心の奥底で思い続けている人だと書いてあった。
「今、二人の人物の間で葛藤しているんだろう」
先生はそう言う。
確かにそうなのかもしれない。
まだ本当の気持ちに気がつく前、彼に告白され断る理由もなくそのまま付き合うことになった。けれど、彼が私に好意を寄せているのを目の当たりにするたびに、私は何とも言えない嫌悪感のようなものを感じてしまう。別に嫌っている訳でもないのに。その時に決まって思い浮かぶのは彼女だった。
5
「お誕生日おめでとう」
教室に入ると、待ち構えてた彼女が満面の笑みで私に向かってそう言った。
「ありがとう!」
私も嬉しくなって満面の笑みを彼女に返す。
「ほら、早く早く」
そうして手を引かれ連れて来られた私の机の上には、前に好きだと言ったあのお菓子と綺麗に包装された小包が置いてある。
「開けてみて」
その包装されたものを手渡され、私は言われるがまま包みを開く。
「あっ! これ、ずっと欲しかったやつだ」
中には、私がずっと欲しいと思っていたリップとメッセージカードが入っていた。
「本当に嬉しい」
「気に入ってもらえたようで、私も嬉しいよ」
そう言って笑いあった。
私のために選んでくれたプレゼントだと思うと、とても愛しくて。
愛しくて、苦しくて。また吐き気が私を襲う。
「この病気は、気持ちが高ぶると吐き気を催し花を吐く」
そう言った先生の言葉を思い出した。
そうか、まさに今私の感情は頂点のところにいた。中にある花の種が反応して花と成り、喉元までせり上がる。
こんなところ、彼女に見せるわけにはいかない。見せてはいけない。見せたくない。
「ごめん、ちょっとトイレ……っ」
そう言い残し、走って教室を出る。
気持ちを落ち着けないといけない。けれど、まさかこんなに嬉しいことが起きるなんて思ってなかったから、そう簡単に落ち着けるはずなんてなくて。
「あ、やば……っ、うぅえ……っ」
トイレにはぎりぎり間に合わず、赤い花を吐き出した。
どうしよう。誰かが来る前に片付けないといけないが、未だ収まる気配のない吐き気と追いつかない頭で動けずにいる。唯一よかったのは、まだ朝早いからか廊下に人がいないことだけだった。
「……百合、ちゃん?」
背後から声が聞こえた。
今、一番聞きたいけれど聞きたくなかった声が。
声にならない。いっそのこと叫んでしまいたいのに。
パニックになっている間にもまた花はせり上がってきて、無理矢理飲み込もうとするけれど、運悪く喉に詰まる。
「あぁ……うぁ……」
彼女はこの惨状を見て、どう思ったのだろうか。流石に軽蔑しただろうか。そんなことならいっそのこと、このまま、このまま詰まって死んでしまいたい。
ああ、でも彼女と会えなくなるのは……ちょっと寂しいかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
「百合ちゃん、しっかりして!」
朦朧とした意識の中、彼女の声が私の頭に響く。
そして走馬灯のように夢を見た。
白い花でいっぱいのお花畑で一本だけを大切に握りしめ、くるくると回る夢だった。私は幸せな気持ちで胸が満たされ、ただひたすら回っている。
目眩がするほど回り続けて、そのまま目の前が暗転した。
6
「……百合、ちゃん?」
蹲る彼女を見て、反射的に声をかけてしまった。
ほんの一瞬時が止まったかと思うような静寂に包まれる。もしかしたら声をかけて欲しくなかったのじゃないかと、その場から一歩踏み出すのを少しだけ躊躇したけれど苦しそうに咳き込む彼女を放っては置けなかった。
背をさすろうと近づくと、彼女のそばに赤い花が落ちていることに気がついた。それは、ほのかに甘い香りを纏い私を惑わせる。
これか、先生が言っていたのは。
「夢に出てくる人は、花吐病の可能性が高い。もしその花に対して好意的な感情を抱いたのなら、ほぼ確実に君は花食病だと言っていいだろう」
ああ、その花を口にしたい。そう思って仕方がない。
けれど今はそんなことをしている場合ではなかった。
「百合ちゃん、しっかりして!」
呻き、苦しそうにする彼女をそっと支えトイレへと向かう。
背を叩き吐かせると零れ出たのはやはり花で、私はたまらなくなって花をこっそりと手に取った。
口にしたその花は、とても甘かった。
7
「夢を見てたの」
保健室のベッドの上で、彼女はそう言った。
「真っ白なお花畑で、くるくる回ってる夢」
それから、彼女は泣きそうな顔で話し始める。
「由梨、見た……よね」
「うん」
「そっか……由梨には知られたくなかったんだけどなぁ〜」
辛いのを我慢しながら、おどけるようにしてそういう彼女の目には今にも零れ落ちそうなほどの涙が浮かんでいた。
「実はね、楽しかったり嬉しかったりすると花を吐いちゃう病気なんだって、私」
彼女の涙は、溢れ出してしまって止まらない。
吐きたくないのに、感情が抑えられずに吐いてしまう。どうしたらいいのかわからないんだ、と彼女は言う。
私は彼女の言葉を聞いて、こう言った。
「私もね、花を食べたくなっちゃう病気なの」
「え……?」
そう、なの? と驚いた彼女の目には、もう涙はなかった。
「そう、花以外の味があんまりわからなくなっちゃってさ。生きてはいけるんだけど、ちょっと不便だよ」
そう言って笑いあって、病気のことをぽつりぽつりと話し合う。
どちらも恋の病気だということ。両想いになったら、白いユリの花を吐いて完治すること。それを食べて甘いと感じると完治するということ。
──でも本心は隠していた。私の恋が叶うことはないだろうから。
それに、本心を言ってしまったら……もう、元には戻れないかもしれないから。
切ない気持ちを奥底に追いやって誤魔化して──私は彼女の手をそっと握った。彼女もそれに応えるようにして、手を握り返す。暫く静かな時間が続き、それからうつむいていた顔をそっと上げて口を開いた。
「由梨、あの、ね」
彼女はまた零れ落ちそうになっている涙を抑えながら、言葉を紡いでいく。
「私、由梨のことが好きだ」
そう言って、えへへと笑った彼女はとても輝いていた。
「私も……っ、」
まさか彼女がそう言うとは思っていなかったから、答えようと口を開いた瞬間押さえ込んでいた涙がとめどなく流れ言葉を遮る。
「あ、ごっ……ごめんね、涙がっ、止まんないや」
「……大丈夫、だよ」
そう言った彼女も涙を流していて、それから二人で抱きしめあった。何かを言うわけでは無いけれど、ただ暫くそのままでいた。
「……ぁ、」
彼女が苦しそうな声を出す。
「ごほ、っ」
咳き込んだかと思うと、彼女の手の上には夢で見たあの白い花があった。
先生は言っていた。花食病を発症するとき、側には花吐病の患者がいると。夢にいつも出てくる人がいるならば、その人が運命の相手だという可能性が高いと。
「あれ、これって……」
「白い……ユリの花だ、」
とても綺麗な純白のその花は私にとって、とても美味しそうなご馳走のように見えた。今すぐ手に取り食べてしまいたいけれど、その前にきちんと気持ちを言葉にしてからにしようと彼女に向き直ってから口を開いた。
「百合ちゃん、あのね……っ、私も百合ちゃんのことが好き」
前からずっと好きだった。自分の本当の気持ちもわからないし、何よりも百合ちゃんに嫌われるのが嫌だったから伝えられなかったけれど。それでもずっと心の中には彼女がいた。
「私も、大好きだよ」
それから彼女は私に花を手渡し、そっと口づけをするように食べる。その花は今まで食べたどのお菓子よりも甘く、とても綺麗な味がした。
「ずっと一緒にいようね」
「うん」
朝日に照らされたカーテンの向こう。私たちは保健室のベッドの上で二人だけの結婚式をするように、誓いのキスを交わす。そうして私たちはもう一度確かめるように、ずっと共にいる事を誓った。
花と同じくらい甘い口づけを、こんな素敵な日の事を、私は忘れることなどないだろう。
「大好きだよ」
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